イタ飯百珍

イタリアが「他国に負けない!」と気を吐いているもの、それが「食」!最近は備忘録。

外出恐怖症

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5月13日(水)

今日は、車のバッテリーが上がってしまうのを避けるために、農家直営市場に行ってきた。

娘のオンライン授業のはじまりも今日は遅かったため、彼女も連れていく。顔見知りのお店の人々が、明るく声をかけてくれる。週末は入場するために列に並んだけれど、水曜日はその必要もない。人少なである。

家に戻ってくると、歯医者から電話。

いきなり、明日の9時半に娘の矯正治療に来てくれという。ここ数日、世の中の動きが性急になってきた感じがする。

次々と活動を再開する人びとに遅れまいと、あらゆる人が前のめりになっているかのようだ。

 

いっぽう、私はますます外出がイヤになっている。それはなにも、コロナの感染が怖いのではない。なんというか、2カ月以上も家に閉じこもった生活をしていたせいで、元来の出不精に拍車がかかったとしかいいようがない不気味な感情である。人々が再出発を始めたというのに、私はエンジンがかからない。物欲もなくなって、外に出ていく意気込みゼロである。だから、このまま世の中の動きに乗り遅れるんじゃないかという焦燥感もある。そんなこんなで、いつもモヤモヤしている。そういえば、夫の講義は来週に延期になったため、とりあえず彼の不機嫌に右往左往させられることからは解放された。それなのに、モヤモヤは消えない。

 

町の広場のバールも、今日から再開。

もちろん、中には入れない。入り口で注文を取り、コーヒーやコルネットはテイクアウトである。今日は買い物の袋を両手に下げていたから、バールのコーヒーはあきらめた。バールのコーヒーを2カ月以上も飲まない状態なんて、考えて実えば本当に異常事態だ。近日中に、バールでコーヒーを飲もう。コルネットも買いたい。

しかし、常連が集わないバールがイタリアのバールといえるのだろうか。今日の広場には、マスクをしたいつもの面々がだべっていたから、これはこれで新しい秩序というものかもしれない。日本の満員電車でも感染が拡大しないという事実を鑑みると、やはり大声で語り合いスキンシップが当たり前のイタリアは、根こそぎ習慣を見直さなくてはいけないのだろう。日本は、満員電車の中でおしゃべりする人はほとんどいないし、普段から他人とはべたべたしない。そして、マスクをすることがコロナ前から日常の一部みたいになっていた。

歴史家のハラリさんは、「古い規則が粉々になる一方で、新しい規則はまだ書かれている最中です」と語っていた。

つい数か月前まで当たり前であったことが、あれよあれよというまに「古い規則」と化してしまったのだ。新しい秩序が生まれつつある今、さまざまな摩擦が生まれるのは当然だろう。同時に、個々の人間の中でも人には語れぬ葛藤が生じてなにがおかしいだろう。私の説明不明の外出恐怖症も、そのひとつだと思いたい。

 

そんなモヤモヤのなかでも、ささやかな喜びはある。

今日は、初物のビワとサクランボを買って食べた。コロンとしたかわいい新ジャガイモも買った。初物というのは、本当にみずみずしい。そうだ、本当にこの家に閉じこもっている生活には、みずみずしい感情というものが欠如しているのだと思う。たとえば夫との会話だって、離れていてやり取りするLineでのメッセージのほうが、よほど相手を思いやる感情にあふれていた。2か月以上もつかず離れずともにいるのに、会話も減ってなにやら索漠とした空気だけが家の中に漂っている。

こんなとき、料理をするとか手芸をするとか、手から何かを生み出せる人はみずみずしい感情の中にひたる時間を持てるのだろう。私の場合は、気まぐれにケーキを焼いてみたところで、うわあっと浮き立つようなビジュアルのモノはできあがらないのだからしょうがない。

 

書いていると、よけいに自虐的になるので今日はこの辺で。

そういえば昨日は、一口飲んだワインでベロンベロンに酔っぱらい、ほぼ失神状態で爆睡。現実を忘れるためには、たまさかのアルコールも悪くない。

でも今日は、赤毛のアンシリーズに戻ることにする。

おやすみなさい。