こんな日があるから、生き続ける
私は、生来のペシミストである。
もうこれは治らない病気のようなもので、幸福を感じることがあっても「いや、こんなことが長続きするわけがない」と考えてしまうし、些細な失敗をしただけでどん底まで落ちていってしまう。
若いころは、それこそ両親が風から囲うように守っていてくれていたから、悲観主義者の私もそれに甘えてずいぶん傍若無人に生きていたなあと反省することが多い。
不惑をこえて、先の人生のこと、自分自身の資質のこと、さまざまに考えるとペシミズムの傾向は拍車がかかるばかりであった。
だから昨今、私の心を激しく揺さぶることがあるとすれば、それはいつも不安や悲しみであることが多かった。そんな自分を受け入れることができるのが40代というものだと思えば、たしかに不惑という言葉には納得がいく。
でも今日、私の気持ちをポジティブに激しく揺さぶることが起きた。
それは、ある人に激しい友情を感じたことである。その人は、とても心根のきれいな人なのだと思っている。その人のことを心から尊敬し、幸運や成功を願う。
友情とは、愛のひとつの形ではないかと常々思っている。だから、そう頻々と友情は生まれるものではないのだと私は思っていた。当然、私は親友が本当に少ない。普段イタリアの片田舎にいて、親友と語り合うという贅沢とは無縁である。せいぜいが、日本にいる学生時代の1人とチャットで語ることがたまさかにあるくらいだ。
「沈黙は金なり」を金科玉条にして、私は自分の思いを吐露することは夫以外にはあまりない。夫はイタリア人だから、私のつたないイタリア語で本当の思いがどこまで彼に伝わっているかはわからない。でも、それで私は納得していた。
今日、私を満たしてくれた「友情」というものはだから、私の人生の中でも特筆すべきことなのだ。彼女と、今日は時間が惜しむほど語り合い、自分をさらけ出してしまった気がする。恋のはじまりに雄弁になってしまうかのような、面映ゆい思い。なんというみずみずしい感情だろう。
絆というものは、年数を重ねて生まれることばかりではないのかもしれない。
まるで、一瞬の火花のように感応しあえる出会いも人生には用意されているのかもしれない。
私のような地味な人間に、こんな華やかな感情が沸き上がることもあるのかと、はやる自分を押さえている。
落ち着こう。
この友情が、この先も続くことを願って。
夫出張中、娘は姑の家だ。