この慌ただしき日々
2020年に入ってからのこの慌ただしさはどうしたことであろうか。
今朝、私はプロヴァイダーとセキュリティシステムのことで揉めた。そのもめ事が長引いてイライラ感が収まらぬうちに、飛び込んできたのはイタリア国内の学校休校のニュースである。
中国の武漢でコロナウィルスが広がり始めていると聞いたのは、2カ月も前のことではない。それが、あれよあれよという間に私たちの生活を脅かすところまで広がってしまったのだ。
荒れるクラスのチャットを横目にニュースを追っていたら、かつて私が寄稿していたクーリエ・ジャポンでこんな記事を見つけた。
たしかに、感染した人を隔離しても隔離しても、ウィルスは国境も人種も宗教をこえて容赦なく迅速に侵入してくる。
ルネサンスの時代、男たちを総薙ぎにした梅毒が流行った時には、「フランス病」と呼ばれたり「ナポリ病」と呼ばれたりしたのだ。昔から、人々は恐ろしい感染病を、名前だけでもある一定の地域に閉じ込めようとしたのだろう。その風潮は、現代も少しも変わっていない。そして、それは少しも功を奏さないのである。21世紀を迎えた今でも。
コロナウィルスが流行り始めてこのかた、イタリアに住みながら差別を意識したことがなかった私も、外出が怖くなり始めている。
私の行動範囲は非常に狭い。学校やお稽古ごとの送り迎え、市場やスーパーマーケット、そのくらいしかない。さいわい、小さなこの町では私や娘の顔は知れているから、コロナウィルスが蔓延し始めてからもあからさまな差別や侮蔑的な言葉や態度はとられていない。町の人に、心から感謝している。
しかし、これまではたいして考えたこともなかった差別について意識するようになったことは確かである。
かつて読んだ有吉佐和子さんの『非色』には、こんなフレーズがあった。
「
差別とは、それを口に出すことを自身に禁じても、思うことまでは抑えることができないものだ。
誰でも、心の中に他人に対する優越感や劣等感を抱えて生きている。それがなくては、生きていけないという有吉さんの言葉は深い。
パニックや焦燥感が横行する今、こうした個々の内なる思いも抑えられないまま外へと流れ出て、私たちを支配してしまう。殺伐として荒涼とした空気やむき出しの敵意は、こうした思いの中から生まれてくるのだろう。
しかし、それも人間というものの業ではないのだろうか。きれいごとだけで構成されていた時代など存在しないのだ。こうした非常時に、普段はくすぶっている社会の膿が一気に外に出してしまうのも、外科的な荒療治となるのかもしれない。
国と国との間に、あるいは人と人との間に、どのような齟齬が存在しても、私たちはいま同じ方向を向いている。ウィルスの終息という方向だ。今は、それだけでいい。
朝からの慌ただしさに深い疲労感を覚える宵、荒ぶるドュ・プレのチェロを聴きながら明日から娘とどうやって過ごそう、と考えている。