閉塞感の中で生きる
休校になって初めての週末がやってきた。
クラスのチャットはリンリン鳴りっぱなしだ。
子どもたち同士がオンラインのゲームで遊ぶためにIDを教えあい、親は休校中の宿題が届かないと愚痴を言う。
あるママはピクニックを提案し、医療に従事している別のママは「それは休校の措置に反するから駄目だ」と反論する。
私は、着信音をオフにした。
こんなことが続いたら、気が狂ってしまう。
姑は姑で、週末に外食をしようと誘ってきた。
夫は、イタリア中の学校が休校しているこの緊急時に人が集まるところにいくなんてと一喝。
家族の間にも、常ならぬ殺伐とした感情が流れている。
思うように外出もできないこの状況は、精神的な閉塞感がもたらす疲労が大きい。それでも生まれてこのかた、ひもじくもなく大病もせず事故にもあわず生きてきたのだから、愚痴を言うのはおこがましいというものだと考え直す。
娘に、普段は怠りがちなピアノの練習をさせた。一緒にホットケーキを焼いて、おやつに食べた。自分が子供のころを思い出し、父母が恋しくなった。
新聞を読んでいたら、イタリア北部の本屋さんたちの奮闘記事を見つけた。
アマゾンに押されて青息吐息だった本屋さんたちは、この状況の中で自転車を使って本を配達しているのだそうだ。小説やサスペンスなど、現実を忘れて楽しめるようなカテゴリーが人気だという。
ソーシャルにも、いずれは倦む。
文明の利器に倦んだ先には、書物への回帰があるのだろうか。それはそれで、めでたいことだ。
世界を巻き込んでいるこの大惨事の中で、私たち人間の精神のありかたはどう変化していくのか。
うねり狂う嵐の真っただ中を漂っている今は、なにも見えない。