胸に千巻の書
「胸に千巻の書あれば 語を下すおのずから来歴あり」
宮本輝氏の著作を読んでいてこんな言葉に出会ったのは、ずいぶんと前のことだったと思う。
私は生まれてからこのかた、千冊の本はまちがいなく読んでいる。が、娯楽本も多かったから、おのずから口からこぼれる言葉は薄っぺらいものになってしまうのだろう。
胸の中の書というのは、やはりそれなりに心の中に残る書物でなければ意味がないのだ。そう考えると、私の胸の中の書は、千巻には程遠い。
私はわずかな友人しか持たない。が、たいていはとても長続きする友情となる。
先日で会った友人を含めて、この友人たちの共通性とはなんなのかよく考えてみた。
彼女たちは(私は女子高育ちなので男友達がほぼゼロである)、騒々しい生き方をしていない。華やかに活躍していたり、他人にはうかがい知れない才能があったりするけれど、それを自ら声高に語ることはほとんどない。
話をしているうちに、おのずから才能なり人柄なりがにじみ出てくる人が多いのである。フェミニストには怒られるかもしれないが、奥ゆかしさがあると表現したい。いや、女性だけではなく男性だって奥ゆかしい人は素敵だと私は思うのだ。
学生時代の仲良し4人組と里帰りのたびに会うのだけれど、学生時代あれほど胸襟を開いて語り合った彼女たちも、今はもうそれほど自らを語らない。1年に1,2回しか会わないのだから、お互いの事情を熟知しているわけではないのだ。わずかな時間にそれを語ろうとしても、中途半端になることは4人ともなんとなくわかっている。
屈託のなかった十代を思えば、誰もが山あり谷ありの人生を歩みながら熟年に到達している。自分のことを声高に語ったりはしないけれど、話をしていれば変わらないゆかしい人柄を感じて安心するのである。
そのうちの一人とは、頻繁とまではいかないけれどたまさかにメッセージを交わす。苦労が多かったにもかかわらず、彼女の飄逸な精神は失われていない。送られてくるメッセージも、飄げていて愉しいものだ。
先日記事に書いた友人も、知り合った当初はとても好ましい人だなと思った程度であったのだ。語り合ううちに、彼女がどれだけの才能に恵まれているかを知って愕然としてしまった。なんというか、静かな湖面の下に碧く清らかな水を深く深くまで秘めているような人、なのである。そしてその人も、私と同じ方向を見ている。それが、なによりもうれしい。
私たちは、まるで思春期に戻ったかのように、ハートがついた絵文字を連発してメッセージを交わす。絵柄は騒々しいのだけど、彼女が送ってくれる言葉は常に温かく、ゆかしい。
こうした友人たちは、胸の中にどんな千巻の書を秘めているのだろう。
メルカートで買ってきたフラッペをつまみながら、好ましい友人たちに思いをはせている。