木の芽どきのけだるさよ
4月2日(木)
私のコンピュータが日本時間になっているせいで、hatenaブログの時間と実際に書いている時間にずれがあるようだ。
今は、4月2日(木)午後6時過ぎである。
友人から連絡があり、ここ数日ブログを書いてないけどどうした?といわれた。
すみません。
封鎖中のこまごましたことを日記のように書くつもりだったのだが、ここ数日は仕事に追われてブログにまで手が届かず。
気温は低いものの、陽光はすでに春のそれである。
にもかかわらずなかなか寝つけず、こんな毎日だからついつい寝坊し、遅い朝もどよーんとした気分で始まる。これも、木の芽どきのせいなのかもしれない。
大方の予想通り、イタリアは復活祭明けまで封鎖が延長されることになった。
そろそろ感染状況もピークだろうといわれている。まるで蕎麦屋の出前のように、来る来るといわれてなかなか到達しなかったピーク。感染者数のグラフを見れば、素人目にも横ばいになってきたのがわかる。ピークに達しても、その後いきなり急降下して感染がゼロになるわけではない。まだ先は長い闘いなのだ。
日本の状況も、まるでシーソーゲームである。
当初は、私たちが日本の状況を憂いていた。
あっというまにイタリアで感染が拡大し、日本の友人知人たちから「イタリアは大丈夫か」のメッセージが山ほど届いた。
今はまた、封鎖状態のわれわれが日本を心配している状況だ。
日本で感染が拡大しないのはミステリーで世界中から注目されていたが、ここ数日は日本の感染者数も増えている。
うるさいほど実家の母に「家から出るな」と繰り返している。「耳にタコができるほど言うからね!」と私が母にいったら、娘は「ママ、もうそのくらいにしておきなよ。ノンナの耳にほんとにタコができておかしくなっちゃったら困るじゃん」と母をかばう。
その母も、「生きて元気で孫娘にまた会いたいから」という理由で、外出は最低限にしている。病院ボランティアも美容院もキャンセルした。
おたがいを気遣いながら、とにかく感染せずに生き抜くことを毎日誓い合っている感じ。まさか、こんなドラマチックなことが生きている間に起こるとは。
学校も、まだ当分元に戻りそうにない。
クラス代表の夫のもとには、先生が次々に課題を送ってきても、どだい授業が思うように進められていないのに、このままでは親の負担が多すぎるという父兄からの不満が蓄積。
昨日は、夫が副校長と直接話をして、もう少し秩序立てて授業と課題を送ってくれるように頼んでいた。
その娘は、午後も5時を過ぎると仲良しの友達とビデオチャットをはじめ、ともにおやつを食べる。
今日は、娘の彼氏のママから連絡が入った。
「セルジオがお宅の娘さんとどうしても話をしたいって言ってるのよ。後で電話させてもいい?」
もちろん、イエスと答えておいた。
このママは、麻酔科医である。「私たちはなにもできないけど、家から一歩も出ないから!」と送ったら、「それだけで、どれだけ医療の現場は助かるか。コロナウィルスはまだまだ未知の病気であり、私たちにはそれと戦う武器をまだ手にできないでいるから」という返事が来た。
現場には、余人には計り知れない地獄があるに違いない。それを思えば、退屈もストレスもなにほどのことではない。
先日、頼まれて私たちの生活について小さな記事にした。悲惨な状況が続く北部については日本でもよく報道されるけれど、感染者が少ない町に住む普通の生活も発信すべきだと思い、たんたんと書いたつもりだ。
日本に住む人よりも、イタリアに住む日本のかたから好評をいただいた。
とても面白い視点だと思います。キリストが復活したくない復活祭、イタリア人のみごとなサーカズム。トンチが効いています。気分転換になる記事でした。筆者の方に賛。イタリア総シェフ、なるほど〜、と :)
— Chiezaru (@italy_fan) 2020年3月31日
都市封鎖下も三週間、おまけに延長するという話になってさすがに滅入っているところですが、ロックダウンについての記事なのに、読ませて頂いて気持ちが軽くなりました。
— Chiezaru (@italy_fan) 2020年4月1日
ドラスティックに鼓舞するわけではないですが、そこはかとなく勇気も湧いてくる素敵なエールだと思います :)
私が意図したのも、この方がくみ取ってくれた通りのことだ。ありがたいことである。
これまでイタリア人が払ってきた多大な犠牲が無駄にならないよう、粛々と引きこもり生活を続けるつもりだ。