イタ飯百珍

イタリアが「他国に負けない!」と気を吐いているもの、それが「食」!最近は備忘録。

マエストロの死

7月6日(月)

週末は、かなりバタバタ忙しかった。

土曜日は学校のオンライン会議、それが終わるや否や娘を連れてアブルッツォのバカンス先へ移動。いろいろ環境を整えて、私と夫はローマにとんぼ返り。

アドリア海側に抜ける道中では、雹がじゃんじゃん降ってきて外気温は8度なんてこともあった。土曜日は、天候が荒れに荒れていたから気圧の関係で体調もイマイチだった。

日曜日は、友人家族がわが町の近くにあるレストランにやってくるというので合流。とはいえ、ピッツァがおいしいというそのレストラン、昼間は釜に火が入っておらずあまりおいしくもないパスタを食べて、アルバーノ湖畔を散歩して週末終了。

今日からは天気も持ち直して、娘と姑も海で楽しんでいることだろう。

月曜日だから仕事はてんこ盛りなのにイマイチ気分が乗らない午前中、飛び込んできたのがエンニオ・モリコーネの訃報だった。

91歳。

年齢に不足はないものの、やはり感慨深い。

今朝はエルガーを聞いていたのだけど、モリコーネの訃報を聞いてヨーヨー・マが奏でるモリコーネの音楽に切り替えた。艶々の音を出すヨーヨー・マは、私の趣味ではない。だけど、このCDはとても良いなと思ってよく聴いていた。

モリコーネと聞いて思い出すのは、何年前のアカデミー賞だったかグラミー賞だったか、クリント・イーストウッドの紹介で受賞を報告された彼の姿が印象に残っている。

すべての人に感謝しつつ、愛妻への思いを朴訥と語る彼の姿には、ローマっ子らしからぬ生真面目さがあふれていた。

仕事を放擲して新聞を読んでいたら、なんとモリコーネは自身の惜別の書みたいなものを残していたのだそうだ。いわく

「私、エンニオ・モリコーネはこの世を去ります。常に近くにいてくれた友人たち、少し遠くにいた友人たち、すべての人の名を列記することなどできないけれど、大きな愛をもって彼らに最後の挨拶を」

とはじまり、4人いる子どもたちや親しい人に触れた後、

「マリアへ、これまで私たちを結びつけてくれた愛は変わらない。あなたを残していくことだけがつらい。あなたとの別れが、一番悲しい」

とつづっていた。

派手な葬式などしてくれるなという遺言とともに残した自らの死亡記事である。91歳の巨匠は、最後まで明晰だったのだろう。なんでも、少し前に転倒して大腿部骨折をして、入院中に体調を崩したらしい。彼が作り出す音楽はドラマチックだったけれど、糟糠の妻に捧げた愛もなかなか映画のようではないかと思う。私のような職業のものと連れ添ってくれる妻はなかなかいないんですよ、というインタビューも流れていた。雑誌によっては、モリコーネの妻マリアは彼のミューズだったのだ、と書いていたけど、なんとなく違う気がする。2人は、二人三脚で長い時間を生きてきたのだろう。

サイトには哀惜の言葉があふれた。

おもえば、ロックダウン中にもイタリア各地のバルコニーから、モリコーネの音楽が聞こえてきたものだ。その妙なる調べは、イタリア人の心を大いに慰めてくれた。

ある日本人が、こう書いていた。

モリコーネの音楽を聴くと、涙が溢れます。でもそれは、よい涙のような気がします」。

コンテ首相は、こう書いている。

「偉大なるマエストロ、エンニオ・モリコーネ。私たちはあなたのことを、常に感謝をもって思い出すことでしょう。あなたの音楽の中に、私たちは夢を見、さまざまな感情を抱き、思いを深くしてきたのです。その忘れがたきメロディーは、音楽と映画の世界で不滅です」

 

イタリア語の「マエストロ」という温かい響きが似合う人が、だんだん少なくなっていくなと思うこの頃である。エンニオ・モリコーネは身長こそ低かったものの、マエストロと呼ぶのにふさわしい風格があった。

イタリア人が心から誇れるイタリア人が、また一人世を去ってしまったことは本当に惜しい。

天寿を全うし、妻への愛を改めて告白して去っていったマエストロには、彼が生み出した音楽が本当によく似合う。

さようなら、マエストロ。